中学生の頃、初めて校則というものを知りました。
学生手帳なるものを渡されて、それには校則がいくつか挙げられていました。
先生が、校則というものがあるから、それを読んでおきなさい、と言われたと記憶しています。
そして、それを読んだら、それについて自分はどう思うのか、何のために書いてあるのか、考えるように、とも。
生まれてから、小学生を卒業するまでは、
身近な人間関係から、教えられたり、しつけされたりして、
自分の周囲のルールを覚えていったという感覚でしたが、
中学に入り、校則を知った時、
なんだか、わけのわからないものに取り囲まれた感じがしました。
どうしてそういう規則があるのか、その意味の根本が良くわからなかったのだと思います。
言わば、一種の公式な社会のルールを知った瞬間だったのだと思います。
当時の私は、まったく素直で、優等生??だったので、
意味は理解していなかったけれど、あぁ、そうなんですね、と従いました。
とりあえず、わからないし(無知)、
意味もなく先生とのトラブルになるようなことはする必要はなかったから。
これと同じようなことが、今私が所属している社会にも当てはまっているのだと思います。
ルールというものには、いろんなものがあります。
もちろんルールは、必要です。
宇宙にも秩序というものがあって、それにより宇宙は成り立っているからです。
この社会のルールには、それぞれ目的というものが存在していて、
それらが千差万別だということです。
それが、
人の成長(霊的進化)を促すもの、
世界の平和を目指すもの、
人や動植物、その他の命をはぐくむもの・・・
というものから、
はたまた、
ある特定個人に権力や安全、お金といったものが集中するように意図されたもの、
人を無知の状態にしたまま、コントロールするように意図されているもの、
などといったものがあると思います。
ルールにもエネルギーがあり、
それを作った意図が存在するので、よく見てみるとわかると思います。
この時期になるとよく思うのが、
「忘年会に参加してください。全員参加(強制)です」
といったもの。
私には、常に第一優先するものがあるので、そうは言われても、時々出ていません。
参加するときには、主催者の意図に巻き込まれないように、
自分の目的を別に持って参加するようにしています。
自分の行動、現象化は、その思考、意志に依存しています。
自分が何を基準に行動するのか、
人の意図に動かされるのか、
純粋な自分の目的に沿っているのか、
とても大切な部分だと思います。
その積み重ねが、自分の人生全てを形作るからです。
肉体人生を終えるときに、満足感や達成感があるのか、そうでないのか、にも関わります。
この部分を考えたときに、もしかしたらわからないと感じることがあるとすれば、
これが、自分の純粋な目的・意志なのか?
純粋な自分てなに??
でしょうか。
この地球に生まれた時から、私たちはいろんな考え方や知識を
周囲から教えられたり、時には刷り込まれます。
もちろんその中には、肉体を維持するために必要なものとか、愛とか、
いいものもありますが、
そうでないものもあります。
それが形になっているものが(実際は見えないですけどね)、煩悩とかエゴと呼ばれるものです。
だから、見分けはつきます。
それを排除していったところに、本当の純粋な自分が存在しています。
私たちは、生まれる前から、もともと完ぺきで一人一人すべての人が素晴らしい存在なんです。
ハイアーセルフというとわかりやすいでしょうか。
本当の自分でないのに、身についている煩悩やエゴを見て、
自分を嫌いにならないでください。
あなたは愛されるべき、とても素晴らしい人なのです。
宇宙のルール、秩序に従って生きることを選択すると、
一時的に苦しくなったりすることはありますが、最終的には自分の内側の平和に行きつきます。
逆に、無知なまま流されて生きる選択は、
一時的には豊かで安全が守られて幸せだと感じるかもしれませんが、
それは長くは続かず、魂レベルの満足は決して得られないでしょう。
ここで言っている宇宙の秩序、ルールというのは、
多くのスピリチュアルといったカテゴリーやニューエイジといった方面で言っているような漠然としたものでは実はありません。
ミステリースクールで、8000年以上にわたって伝えられてきた叡智、
地球最古の帝王学というものがあり、
その内容は、形而上学という論理性に基づいた教えです。
それをアデプトプログラムと言います。
それが長く、連綿と守り語り継がれてきたのは、本物だからです。
中学の校則が自分の中で消化することができず、ずっと残っていました。
やっと離れられそうです。