「君は、わざわざ苦労をする選択をしている。
多分それが癖になってしまっているんだろうね。」
と、ある人が言った。
心当たりはある。
昔から、我慢と忍耐をするしかないと思った環境にいたから、
それが当たり前だった。
しかし、実は、ことはそんなに単純でもなかった。
嫌いなこと、嫌なことはしないで、好きなことだけすればいい、
という生き方を提唱する流れもあるが、
ある部分は、そうとも言えるが、
完全にそれを実行するのも、やはり違うような気がしてならない。
要は、バランスをとるということが大切なのだろうと思う。
私が、わざわざ苦労する選択をして来た理由は、
自分の中にあるエゴが、安易な選択をしてしまうということに抵抗感があったから。
人は、ともすれば楽をして、欲しいと思うものを手に入れたいと思うものである。
例えば、富士山に登ろうと考えているとする。
富士山に登るには、登山道があって、地図を見ながら、
その登山道に沿って登っていけば、おそらく最短距離で頂上に着くはずである。
でも、その過程は、平坦なものではなく、
酸素は薄くなるし、体力も相当使う。
そうやって、苦労はしても、最終的にはおそらく確実に頂上に到達でき、
これ以上はない満足感で、満たされるだろうということが想像できる。
この部分が、苦労を選択すべきところだと思う。
頂上に行くためには、腹をくくって、何としても、どんな困難があっても、
行くのだという気概を持って、やっていくということです。
一方、美しい富士山を見て、あそこに登りたいなあ、と思って、
登り始めた人が、地図も持たず、頂上に至る道も探さず、
ずっと楽な道ばかりを選択したとします。
絵に描いた餅のように、富士山はずっと見えているけど、
大変だからと、苦労しそうな道を選択せずに、
そのうち何とかなるかなという淡い幻想を抱きながら、
目的もぼんやりしていて、
すそ野をぐるぐる回り歩き続けるという選択です。
好きだとか嫌いだとか言うのは、
自分のエゴに関連付けられたりするし、
楽して得をしたい、苦労はしたくない、ということによく関連づけられているように思います。
これは、自分の内側で起こっていることなので、自分で見るしかない。
もし、そこで自分がどこかおかしいということに気づいたら、
それ幸いとして、自分で修正する。
人が親切に修正してくれるということはありません。
アドバイスをくれる人がいるかもしれませんけど、
それを聞いて、実際にやるかどうかは、自分次第、自分の選択しかありません。
そして、山の頂上を、どこに設定するのかも、大切。
人生の目的をどこに置くかということです。
これが、なにより自分の人生を決定づけます。
「自己実現」とよく言われますが、
この人生で、自分が何を成し遂げようとしているのか?
あなたの人生を決定づけるのは、いつ来るかわからない運ではありません。
運とは待つものではなく、引き寄せるものです。
引き寄せるためには、自分が本当に、この地球で何を成し遂げようと計画してきたのかを思い出して、それに着手することです。
他に方法があるのでしょうか?
この人生の目的は、自分にしかわかりません。
絵に描いた餅(富士山)を、眺めながら、安直に楽な道を選択し続けて、
すそ野をぐるぐる回っているだけで満足できるのでしょうか?
満足できないから、幸せでないし、イライラするし、苦しいのではないでしょうか?
目的、自己実現とは何でしょうか?
いつの間にか、幻想を見せられて、これがそうだと思い込まされていませんか?
周りから見て幸せそうな人生を送る、
条件のいい人と結婚する、
道徳心の熱い人になる、
家業を継ぐ、
普通に生計を立てる、
お金持ちになる、
など。
いえいえ、私達全員、この地球に来たのは、世界平和のためですから。
世界平和のために、それぞれが、何かするために来たのです。
そのなにか、というのは、自分で追及していくことになります。
人から、教えられて、設定するものではありません。
人生の目的は、自分の好きなように、自由に設定できます。
逆に言うと、設定して行動したことが、結果になります。
頂上への道は、途中大変なことがあるのも元々想定内です。
でも、自分でやりたいことをしているときは、
はたから見て苦労している風に見えても、本人はそうでもなかったりします。
あなたは、どんな自分になりたいですか?
何にでもなれるし、なんでもできるのです。
自分のChiceチョイスです。
肉体人生は一度きり。
だったら、本当になりたい自分になり、
心底やりたいことをしたくはないですか?
肉体人生は、やったことだけが実現化します。
自分自身に目覚め、今を生きる意味を知る