Gorah's Wings

True Self True Life  今目覚めの時

諸行無常~高校時代走りながら考えたこと~

もう30年くらい前の話になる。

私は高校生で、中学から始めた陸上部に所属していた。

スポーツは水泳以外は全般的に好きで得意だったが、

当時好意を寄せていた人が、陸上部にいたので高校でもそれを選択した。

石川県の冬は雪が降って寒いが、その寒い中をリレーで走る

耐寒駅伝大会なるものがあった。

当然、トレーニングも本番も寒い中をひたすら走る、走る。

当時、私の走る区間は、七尾市和倉温泉駅から次の駅辺りだったように記憶している。

雪がちらつく中、道も雪道で、ただ、走る、走る。

そんな走る私の横を、車が何台も走り去っていく・・・

距離にして10キロくらい。

走るという行為だけでさえ、全身運動で、呼吸機能や心臓を最大に動かして、

苦しいのに、雪降る寒さの中、一人で走る寂しさ。。。

こんな苦しい思いをして、走っているのに、誰にも気に留められることなく、

私が今ここで倒れたとして、誰も気づかないで、

今倒れて死んだとしても、すぐには気づいてもらえないだろうし、

死んだとしても、一時的には悲しんでくれるだろうが、

すぐに私のことは忘れて、日常の中に私の存在は消えていくのだろうと

思ったら、すごく寂しくて、やりきれない思いがして、

そんなことを感じながら、延々走った。

あの頃の私は、それを「無常」だと思った。

常に世の中は流れて、移り変わり、私という存在さえ確固たる存在とは言えない。

自分とは、いったい何なのか?

高校生ながらと言うか、高校生だからと言うか、思い詰めていましたね。

同じ駅伝メンバーにそれを説明してみたけれど、

首を傾げられ、「わからない」と言われました。

みんな雪の中、何を感じて走るのかは、人それぞれですね、本当に。

あの時のことは、強い印象になって私の中に残り、命題として残った。

今改めて、「無常」を振り返ると、

<無常ーwikipediaより>

釈尊成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。
この無常については、「諸行無常」として三法印四法印の筆頭に上げられて、仏教の根本的な考え方であるとされている。
なお大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」であるとしてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説いた。これを常楽我浄と言う
・・・

常楽我浄とは?

常 - 仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である
楽 - 仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある
我 - 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
浄 - 仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である


当時、哲学や仏教に答えがあるのではないかと思って、

本を読んだりしていましたが、よくわかりませんでした。

しかし、今こうやって見てみると、

私は特に仏教を学んではいませんが、すごく理解できるようになっています。

人間とは、成長するものですね

自分が何か心に引っかかるものがあるとしたら、

それは、自分が人生の中で見つけていく課題なのかもしれない。

時間はかかるかもしれないが、

苦しくても、その答えを見つけていくというのは、

この人生を生きる楽しみなのかもしれませんね

少なくとも私の場合は、そのようです。


余談になりますが、この常楽我浄について。

ふと思ったのですが、

この地球、そしてこの地上にいる人類、そしてすべての存在たちは、

もしかしたら、この世に常楽我浄ー涅槃を創造するために

今ここにいるのではないでしょうか?

そう感じるのは、私だけでしょうか・・・



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